「捉え方」を変えながら、時代の情景をあぶり出す
私は中国の都、いわゆる都城のことを研究しています。日本における、都城を対象としたこれまでの歴史学は、商業や経済が観点の中心になっていましたが、中国・前近代の都城を分析するにあたっては、経済、政治、軍事、祭事、といった観点から先学の都城像とは違うものを見ようと研究しています。
資料には文献もそうですが、こういった絵画も対象とします(写真1)。この絵は『清明上河図』と呼ばれるもので、中国では「国画」とも呼ばれるきわめて有名な絵です。北京の空港に入るとまずこの絵の巨大なレプリカが目に入るように掲げられているほどで、実物が展示されると膨大な人が見に行くわけです。
この絵の舞台は開封(かいほう)という、960年から200年近く栄えた王朝「北宋」の首都です。全て拡げれば長さは5メートルぐらいありまして、農村からだんだんと開封へ舞台が移っていき、農村から開封へ物が運ばれていく様子が描かれているわけです。この絵をどういう風に分析するのか、というのが僕の研究の出発点でした。
当時の中国はいわゆる先進国で、中国で作られたお金「宋銭」が日本でも流通する時代でした。もちろんこの絵からも商業が盛んであることがわかります。ですが「どういう描かれ方をしたか」と考えると、当時の皇帝が理想としていた都市を実際に作りあげることができたと主張するために描いた、つまり政治的な思惑の中で描かれた絵である、という見方もできます。
このように軍事や経済、政治など、様々な面から分析することをかれこれ20年以上続け、最近ようやくこの絵に対する自分の見方に確信を得るに至りました。
写真1:お見せいただいた清明上河図の複写。拡げれば全長5メートルにもなる。絵画の内容はこちらから確認することができる。
見えてくる宋の時代の様々な表情
一方で、宋の前時代である唐や漢といった「貴族の時代」と比べると宋は「庶民の時代」とも言えます。新しい庶民の文化、哲学、世界観が構築されたのはこの時代でした。科挙と呼ばれる官吏登用試験が本格化したのもこの時代です。宋の時代は中国の大きな転換期だったのです。
唐時代の都である長安では、庶民が住む場所は厳格に区画分けされていたのですが、開封では庶民の自由となり、土地が足りなくなると庶民は道に張り出して家を造ったりなんかもしたのです。それから、長安では「夜間外出禁止令」があったのですが、開封では廃止され夜遅くまで大騒ぎだったとされています。ただしこれについては最近、0時から5時までの間だけ禁止令が存在していたことを示す資料を発見し、新しい学説として発表させていただきました。
ただ、この絵は繁栄だけでなくその時代の陰の部分も映しているのです。よく見るとこの絵、女性が一人も描かれていません。つまりその時代では女性を「陰」の部分とし、この絵は当時の「陽」とされた部分しか見せていないのです。
時代の情景を明らかにするには、その隠された部分も含めて我々は考えていかなければならないのです。
比べることで活き活きと街が浮かび上がってくる
同じ時代に描かれた他の絵、つまり他の街と比較して検討することによって、街の様子がくっきりと、そして活き活きと浮かび上がってきます。こういうのを「比較都城史」と呼んでいます。
比較都城史は3~4年くらい前から盛んになってきまして、それまでは我々研究者達はそれぞれ別個の都城について調べていました。都城はいわゆる首都ですが、時代により都城は変わりますし、複数存在する時代もあったのです。ですが研究を続けていく中で、我々は「都市の中でも都城だけは他の都市と全然意味合いが異なる特別な町である」という認識を持つようになりました。具体的には、都城には皇帝が住んでいるため、単なる経済の中心地ではなく政治的・軍事的な色彩が強くなります。そのため都城が国の体制を強く反映した街になり、その都城を見ることが国全体の様子を見ることにつながる、というわけです。我々は独自にこの「都城史」に取り組んできましたが、それを他の都城研究者も集まって比較しながら検討していこう、と「比較都城史研究会」が発足し(リンク)、今も年に何度か集まって研究を進めています。
最近になって比較都城史が盛んになり大きな進展が見られるようになりましたが、これは都城研究を進める人たちがある程度の一定の成果を出せる年齢になったことも理由にあると考えます。理系の場合は、新しい物や現象を発見してそれを解釈することで研究が一気に進みますが、文系ではある程度論文を積み重ねていかないと自分の考えに芯が通らないものなのです。自身の考えを確立するのには10年くらいはかかるでしょうか。
また、中国でも歴史的資料の発掘が進んだことも理由にあります。街にアパートやマンションが増え、建設する際に地面を掘り返すので資料が発掘されるようになったのです。それから、宮殿やお寺の跡が発掘されるとそれが観光資源になるので、住民も観光資源をどんどん増やそうとして発掘が進んだ側面も指摘できます。清明上河図に描かれた建造物を復元するテーマパークまで作って観光客を呼び込もうとしている所もありますしね。
都城研究にかける想い、昔と今
大学生の頃はちょうどバブル景気のころで、東京が発展していくさなか、中国史の研究を始めるにあたり考えたテーマが「発展」でした。また、そのころ水滸伝のドラマの舞台にもなった、北宋の時代に興味があったんですね。
その当時は、歴史学を研究して得たものを現代に反映させようという想いがあり、そのことを想定しながら研究テーマを組み立てていました。ですからたとえば「現代思想」や「都市社会学」も参考にして研究を進めていたんです。けれども今はむしろ、資料や物に沈潜し当時の時代像を明らかにしていくことを中心に考えています。
人類の歴史を学ぶと言うことは「今の時代と過去の時代との対話」をすること、つまり過去と今のつながりを考えなければならないと思っています。たとえば清明上河図の舞台である宋の時代は現在の中国の繁栄を象徴するものであると中国の人たちは認識し、つまり現代の中国を宋と照らし合わせているわけです。つまり現代の中国人がこの絵をどう見ているのかを考えることは、中国の「今」を分析することにつながるわけです。
当面の目標は、「比較都城史」の観点から、より多面的に開封に対する認識を深めていくことです。私は以前開封に関する著書を一冊出版しましたが、この頃と比べて新しい知見や見方も増えました。比較都城史を通してこの清明上河図に対する新しい認識の確信が持てたことを中心として、新たな著書としてぜひまとめてみたいと思っています。
1991年に早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。1988年から中高教諭を勤め、1998年本校に一般科(社会)准教授として着任、2009年より教授。史学会、東方学会、東洋史研究会、宋代史研究会、日本歴史学協会などに所属し、中国史、アジア史、比較都城史等多岐に渡る研究に従事。博士(文学)。個人ホームページはこちら。(2013年11月掲載)